愛。それは人生の中で最も美しく、同時に最も難しいテーマかもしれません。家族、友人、恋人、同僚など、私たちは日々、さまざまな人と関わりながら生きています。けれど、どう愛すればいいのか、どう接すればいいのか、迷うことも多いものです。そんなとき、聖書は私たちに確かな道しるべを与えてくれます。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19章18節)
このみ言葉は、愛の本質を語るみ言葉として、古くから多くの人の心に響いてきました。起源は、旧約聖書のレビ記にあります。もともとはイスラエルの民に対する律法の一部であり、同胞を憎まず、赦し合い、思いやりを持って生きるようにという教えでした。隣人とは、当時は自分の共同体に属する人々を指していたのです。しかし、イエスはこの教えをさらに深め、広げました。
「『あなたは、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが、たいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それとおなじようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイの福音書22章37~40節)
さらにイエスは、「隣人とは誰か」という問いに対して「良きサマリア人のたとえ」を語ります。敵とされていたサマリア人が、傷ついたユダヤ人を助ける姿を通して、イエスは助けを必要としている人すべてが隣人であると教えました。つまり、隣人愛とは、国や立場、過去の関係を超えて、すべての人に向けられるべき愛なのです。このように、イエスはレビ記のみ言葉を引用しながらも、その意味を再定義し、愛の範囲を広げました。愛とは、感情だけでなく、意志と行動によって表されるもの。自分のことのように相手を思い、いたわること。それが神の望まれる愛のかたちです。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイの福音書7章12節)
この黄金律もまた、愛の実践を促すみ言葉です。私たちは誰かに優しくされたい、理解されたいと願います。その願いを、まず自分が他者に向けて実践すること。愛は待つものではなく、与えるもの。自分から愛を差し出すことで、愛の循環が生まれます。
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」(マタイの福音書5章7節)
このみ言葉も、愛の深さを教えてくれます。完全な人などいません。だからこそ、互いに赦し合い、思いやる心が必要です。神が私たちをあわれんでくださったように、私たちも他者に対してあわれみを持つとき、愛はより深く、強くなっていきます。
「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」(コリント人への手紙 第一 13章8節)
このみ言葉は、愛の永続性を語っています。人の言葉や知識は時とともに変わりますが、真の愛は永遠です。人との関係が揺らぐときでも、愛を選び続けることは、神のみ心にかないます。そして、イエスは弟子たちにこう命じました。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネの福音書13章34節)
イエスの愛は、無条件で、犠牲をいとわないものでした。その愛に倣うとき、私たちもまた、真の愛を実践する者となることができます。人との愛を学ぶには、まず神の愛を知ることが大切です。
「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、わたしが、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてを守ることである。」(申命記10章12-13節)
神を愛し、仕える心が、私たちの人間関係にも反映されていきます。神の愛に根ざした生き方は、他者への愛をも豊かにし、深めてくれます。「隣人を愛する」というみ言葉は、古代の律法から始まり、イエスによって全人類への愛へと広げられました。迷ったとき、傷ついたとき、愛を見失いそうなときこそ、み言葉に立ち返りましょう。そこには、変わらない真理と、尽きることのない愛があふれています。あなたの心が、今日も神の愛で満たされ、人との関係が祝福に満ちたものとなりますように。アーメン。
音楽「愛を学ぶ」
この曲は、人との関係に悩んだとき、聖書のみ言葉に立ち返ることで見えてくる“本当の愛”を歌った讃美歌です。優しいメロディにのせて、赦し、思いやり、そして神の愛の深さを感じられる一曲に仕上げました。心がそっと癒され、誰かをもう一度愛したくなるはずです。ぜひ聴いてみてください!
音楽 ”愛を学ぶ”


コメント