苦しみを受けている時に救いとなる聖書のみ言葉

神さま

人生には、心が張り裂けそうなほどの痛み、孤独、そして「神はどこにいるのか」と叫びたくなる時があります。そのような時、イエス・キリストご自身が経験された「深い闇」と「神の沈黙」を知ることは、私たちに計り知れない慰めと希望を与えてくれます。イエスは神でありながら、十字架とゲッセマネで“人としての苦しみ”を極限まで味わわれました。その姿は、私たちの痛みを理解し、寄り添うためでした。

ここでは、イエスがご経験された二つの深い苦悶を通して、苦しみの中で読むべき聖書のみ言葉をご紹介します。

「それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」(マルコ15:34)

イエスが十字架上で叫んだこのみ言葉は、詩篇22篇の冒頭の引用です。当時のユダヤ文化では、詩篇の冒頭を引用することで「詩篇全体」を指し示す方法が一般的でした。詩篇22篇は前半が深い苦しみ、後半が神の勝利と救いの確信で構成されています。イエスは「見捨てられた」という感覚の極みにありながら、詩篇全体を通して「神の救いが必ず成し遂げられる」という希望を宣言していたのです。これは絶望の叫びではなく、救いの完成を告げる“信仰の叫び”でした。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)

ゲッセマネでイエスは、血の汗を流すほどの苦悶の中で祈られました。イエスが恐れたのは単なる肉体的苦痛ではなく、罪を負う者として経験する「父なる神との断絶」でした。永遠の昔から父と完全な交わりの中にあったイエスが、その交わりを断たれるという霊的苦しみは、私たちには想像できないほど深いものです。それでもイエスは「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」と祈り、父の御心に従われました。この祈りは、恐れと苦しみの中でも神を信頼し続ける姿を示しています。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6–8)

ここに、十字架とゲッセマネの苦悶の核心があります。イエスは神性を捨てたのではありません。しかし、救いを成し遂げるために“神としての力の現れを自ら制限し”、人としての苦しみを完全に味わわれました。神性は消えたのではなく、沈黙し、隠されていたのです。その沈黙こそ、私たちを救うための愛の証でした。

「『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを見捨てない。』」(ヘブル13:5)

イエスが十字架で「見捨てられた」と叫ばれたのは、あなたが“見捨てられないため”でした。イエスが味わった断絶は、あなたが永遠に神と結ばれるための代価だったのです。だからこそ、どんなに深い闇の中にあっても、この約束は揺らぎません。あなたが涙の中で祈る時、イエスは「その痛みを知っている」と言われます。

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」(詩篇34:18)

イエスがご経験された苦しみは、あなたの痛みを理解し、寄り添うためでした。あなたが孤独を感じる時、イエスは「わたしもそこを通った」と言われます。あなたが涙を流す時、イエスは「その涙を知っている」と言われます。そしてあなたが「神はどこにいるのか」と叫ぶ時、イエスは「わたしはあなたを決して見捨てない」と語られます。

苦しみの中で読む聖書のみ言葉は、ただの慰めではありません。それは、イエスがあなたのために通られた道を思い起こさせる“救いの証拠”です。あなたがどれほど深い闇の中にいても、イエスはその闇を通り抜け、復活という光へと導かれました。その光は、今もあなたの人生に差し込んでいます。

音楽「苦しみに沈む時でも栄光は現れる」
この曲は、主が苦しみのただ中で「見捨てられた」と叫んだ十字架の夜と、ゲッセマネで恐れに震えながらも御心に従った深い愛を、静かで切なく、そしてあたたかく描いた作品です。ひとりで涙を流す夜にも、主はそばにいてくださる―その希望をそっと歌に込めています。ぜひ聴いてみてください!

音楽 ”苦しみに沈む時でも栄光は現れる”

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